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駒留八幡神社の弁天池

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所在地:世田谷区上馬5-35-3

 環状7号線と世田谷通りが交差する常盤陸橋(若林交差点)の南南西に鎮座するのが駒留八幡です。神社の歴史は少なくとも鎌倉時代にまで遡り、徳治3(1308)年に、この土地の領主だった北条左近太郎成願という人物が八幡神を勧請したことに始まるといいます。鎮座の場所を選定するにあたって、馬にのって歩きまわり、馬が足をとめたところに社を建てたことから駒留八幡と称するになったと伝えられています。また、これとは別にさらに古い平安時代に八幡太郎・源義家の創建とする説もあるそうですが、これは関東各地の八幡神社に多くみられる伝説です。

 とにかく、かなり古い歴史を持つ駒留八幡神社ですが、祭神は天照大神と応神天皇(=八幡神)で、ほかにも境内に稲荷社ほか多くの祠が祀られています。そして、その中に常盤弁財天をまつる厳島神社があり、祠の周囲に池がつくられています。ただし、残念ながら現在は水がありません。

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(常盤弁財天と水のない池)

 さて、この弁天様。世田谷に伝わる有名な伝説と深く繋がりがあります。

 戦国時代に世田谷を支配した世田谷城主・吉良氏の第7代・頼康に常盤という側室がいました。常盤は頼康の家臣で奥沢城主(いまの九品仏浄真寺がその城跡)の大平出羽守の娘で、その美しさゆえに頼康の寵愛を一身に受けます。やがて、彼女は妊娠しますが、嫉妬した他の側室たちは常盤が不義密通しており、お腹の子は頼康の子ではないと讒言するのです。これを信じた頼康は激しく怒り、城を追われた常盤は駒留あたりで自害して果てたということです(享年19歳)。この時、常盤は愛育していた白鷺の足に「君とおきて仇し心はなけれとも浮名とる川沈みはてけり」という辞世の歌を書いた遺書を結びつけて、両親のいる奥沢城に向けて放します。これをたまたま狩りに出ていた吉良頼康が射落とし、遺書をみて常盤の潔白を悟りますが、時すでに遅し・・・というような話です。この白鷺が射落とされた場所に咲いた花がサギ草(夏にシラサギに似た花を咲かせるラン科の植物)で、今は世田谷区の花に指定されています。ただし、この伝説にはたくさんの異説が存在します。

 真実を知った吉良頼康は大いに悔やみ、讒言した側室たちを処刑する一方で、妊娠8カ月だった常盤の胎児(男子)を駒留八幡に一社相殿として祀り、また常盤を弁財天として境内に祀ったということです。このため、駒留八幡のことを若宮八幡ともいいます。

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(常盤橋の遺構。刻字は「常磐橋」。セミの抜け殻がついている)

 さて、常盤弁財天の脇には「常磐橋」と刻まれた石橋の遺構らしきものが保存されています(上写真)。常盤が自害した場所のそばの小川に架かっていた橋で、のちに常盤橋と名づけられたそうです。現在はこの橋は存在せず、常盤の名は世田谷通りの常盤陸橋に見られるだけです。

 また、八幡神社の北東、上馬5-30-19に常盤が葬られたという常盤塚がひっそりとあります。

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(現在の塚石は昭和58年、地元有志により建立)  

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