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2011年8月

池上本門寺・松濤園の一般公開2011(終了しました)

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 毎年9月初旬に1週間だけ一般公開される池上本門寺の名園・松濤園。今年も以下の日程で公開されます。

 2011年9月5日(月)~9月11日(日)

  10:00~16:00 入園無料

 江戸初期の茶人・作庭家として名高い小堀遠州によって作られた、大きな池を中心とする回遊式池泉庭園を散策できる貴重なチャンスです。

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九品仏池跡(ねこじゃらし公園)

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(右側が浄真寺の台地)

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(水は暗渠の九品仏川に流れ込む)

所在地:世田谷区奥沢7丁目

 前記事で九品仏・浄真寺を紹介したので、今回はその境内の北側にかつて存在した大きな池の跡を取り上げます。浄真寺は西・北・東を低地に囲まれた舌状台地にあり、戦国時代、同地に存在した奥沢城はまさに要害の地に立地していたと言えます。この台地を囲むように流れていたのが東京湾に注ぐ呑川の支流・九品仏川です。昔、この川の流域は地下水が豊富な湿地で、まるで底なしのような状態だったそうです。ちなみに九品仏川の源流は今の世田谷区桜丘付近の湧水だったと思われますが、等々力渓谷を流れる多摩川水系の谷沢川が豊富な湧水によって北へ北へと台地を侵食し、ついにはすぐ北側を西から東へ流れていた九品仏川に接触するに至り、それ以来、九品仏川上流の水は谷沢川に流れ込み、等々力渓谷を経て多摩川に注ぐようになりました。九品仏川は谷沢川に上流部を奪われたということになります。このような現象を河川争奪といい、現在の東急大井町線等々力駅付近がその現場です。

 さて、上流を奪われた九品仏川流域にも昭和初期になって宅地化の波が押し寄せると、浄真寺の北側一帯を掘り下げて池を作り、掘った土で周辺の水田や湿地を埋め立て、住宅地が造成されました。この時にできた大きな池が九品仏池で、水源は地下から湧き出る水だったと思われます。また浄真寺のある台地の端部にも湧水があったかもしれません。貸しボートも営業しており、名刹・浄真寺とあわせて行楽地となっていたようです。

 池は昭和30年代まで存在しましたが、渋谷の東急文化会館(1956年開業)建設時に出た残土によって埋め立てられ、池跡も今は住宅地になっています。

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(木道より右側の住宅地が九品仏池の跡)

 九品仏川も暗渠化され、浄真寺北側の台地斜面とその下の低地の一部が緑地化され、ねこじゃらし公園と呼ばれています。ここでは川跡が木道になっており、この道に沿ってちょっとした水路も見られます。今はなき九品仏池の南端部に当たると思われ、人工的に汲み上げた地下水を水源としているようです(下写真)。

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 暗渠となった九品仏川は緑道となって東(自由が丘方面)に向かい、呑川と合流します。

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九品仏・浄真寺の池

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所在地:世田谷区奥沢7丁目

 前記事(駒留八幡神社の弁天池)で紹介した戦国時代の世田谷城主・吉良頼康の愛妾・常盤姫の悲話との関連で、彼女の実家であった奥沢城の跡に江戸初期に創建された浄真寺の池を取り上げます。

 東急大井町線・九品仏(くほんぶつ)駅に近い世田谷の名刹・浄真寺。正式には九品山唯在念仏院浄真寺という浄土宗の寺院で、一般には「九品仏」の名で親しまれています。僕も小学3年生の時の社会科見学「世田谷区内めぐり」でこのお寺の境内で弁当を食べたという記憶が微かにあります。

 九品仏の名前は3つのお堂(三仏堂)に3体ずつ、合わせて9体の阿弥陀如来像が安置されていることに由来します。阿弥陀如来は西方極楽浄土におわす仏様で、9体の仏像は救済の対象である人々を生前の所業や信心深さに応じて、上品・中品・下品の三品に、上生・中生・下生の三生を組み合わせた9種類(九品)に分け、それぞれに救いの手を差しのべて往生に導くことを意味します。それは9体それぞれが異なる印相(手指の形)を結んでいることで表現されています。

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(三仏堂。手前から下品堂、上品堂、中品堂)

 この9体の仏像は寺を開いた珂碩(かせき)上人(1617-94)が18歳で発願し、51歳の時に完成させたものです。ただし、実際の彫刻は専門の仏師によるものとの説もありますが。この三仏堂と向き合うように本堂が東に位置し、堂内には釈迦如来像が安置されています。本堂が此岸であり、西方の三仏堂が極楽浄土である彼岸を意味しているわけです。有名な来迎会(お面かぶり)の行事は本堂(此岸)と三仏堂(彼岸)の間に橋を架け、阿弥陀仏と二十五菩薩に扮した信者が黄金の面をかぶって彼岸から来迎、珂碩上人像を伴って本堂から三仏堂へ往生、最後に面を取って本堂に戻ってくるというもので、3年ごとの8月16日に行われます。

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(手前が本堂、向こうに三仏堂が立ち並ぶ)

 さて、この浄真寺の土地にはそれ以前は世田谷城主・吉良氏の家臣大平氏の居館・奥沢城がありました。吉良氏は戦国期の関東の盟主であった小田原・北条氏と姻戚関係を結んでいましたが、天下統一をめざす豊臣秀吉軍によって小田原城が陥落し、北条氏が滅びると、世田谷城も廃城となり、同時に奥沢城も廃されました。そして、江戸時代になって珂碩上人が城跡を寺地として幕府から賜り、1678年に浄真寺を開いたわけです。現在は奥沢城の貴重な遺構としては土塁が残るのみですが、奥沢城時代の常盤姫の悲話にまつわる鷺草伝説にちなんで、境内に鷺草園が作られ、かつて奥沢の湿地に自生していた鷺草が栽培されています。鷺草は7月ごろ白鷺に似た白い花を咲かせるラン科の植物で、世田谷の「区の花」にも指定されています。僕は花の時期に訪れたことがないのですが、そばに清らかな池が作られ、水音を立てています。

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 また、この池とは別に本堂の北側にもひっそりと池がありますが、立ち入ることができず、わずかに覗きみることができるだけです(下写真)。

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駒留八幡神社の弁天池

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所在地:世田谷区上馬5-35-3

 環状7号線と世田谷通りが交差する常盤陸橋(若林交差点)の南南西に鎮座するのが駒留八幡です。神社の歴史は少なくとも鎌倉時代にまで遡り、徳治3(1308)年に、この土地の領主だった北条左近太郎成願という人物が八幡神を勧請したことに始まるといいます。鎮座の場所を選定するにあたって、馬にのって歩きまわり、馬が足をとめたところに社を建てたことから駒留八幡と称するになったと伝えられています。また、これとは別にさらに古い平安時代に八幡太郎・源義家の創建とする説もあるそうですが、これは関東各地の八幡神社に多くみられる伝説です。

 とにかく、かなり古い歴史を持つ駒留八幡神社ですが、祭神は天照大神と応神天皇(=八幡神)で、ほかにも境内に稲荷社ほか多くの祠が祀られています。そして、その中に常盤弁財天をまつる厳島神社があり、祠の周囲に池がつくられています。ただし、残念ながら現在は水がありません。

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(常盤弁財天と水のない池)

 さて、この弁天様。世田谷に伝わる有名な伝説と深く繋がりがあります。

 戦国時代に世田谷を支配した世田谷城主・吉良氏の第7代・頼康に常盤という側室がいました。常盤は頼康の家臣で奥沢城主(いまの九品仏浄真寺がその城跡)の大平出羽守の娘で、その美しさゆえに頼康の寵愛を一身に受けます。やがて、彼女は妊娠しますが、嫉妬した他の側室たちは常盤が不義密通しており、お腹の子は頼康の子ではないと讒言するのです。これを信じた頼康は激しく怒り、城を追われた常盤は駒留あたりで自害して果てたということです(享年19歳)。この時、常盤は愛育していた白鷺の足に「君とおきて仇し心はなけれとも浮名とる川沈みはてけり」という辞世の歌を書いた遺書を結びつけて、両親のいる奥沢城に向けて放します。これをたまたま狩りに出ていた吉良頼康が射落とし、遺書をみて常盤の潔白を悟りますが、時すでに遅し・・・というような話です。この白鷺が射落とされた場所に咲いた花がサギ草(夏にシラサギに似た花を咲かせるラン科の植物)で、今は世田谷区の花に指定されています。ただし、この伝説にはたくさんの異説が存在します。

 真実を知った吉良頼康は大いに悔やみ、讒言した側室たちを処刑する一方で、妊娠8カ月だった常盤の胎児(男子)を駒留八幡に一社相殿として祀り、また常盤を弁財天として境内に祀ったということです。このため、駒留八幡のことを若宮八幡ともいいます。

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(常盤橋の遺構。刻字は「常磐橋」。セミの抜け殻がついている)

 さて、常盤弁財天の脇には「常磐橋」と刻まれた石橋の遺構らしきものが保存されています(上写真)。常盤が自害した場所のそばの小川に架かっていた橋で、のちに常盤橋と名づけられたそうです。現在はこの橋は存在せず、常盤の名は世田谷通りの常盤陸橋に見られるだけです。

 また、八幡神社の北東、上馬5-30-19に常盤が葬られたという常盤塚がひっそりとあります。

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(現在の塚石は昭和58年、地元有志により建立)  

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福川水門

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所在地:埼玉県行田市北河原

 前記事の矢場川水門と同じツーリング(2010年5月)で出合った水門です。茨城県の古河駅を起点に渡良瀬遊水地、足利を回り、南へ下って利根川を赤岩渡船で越えると見えてきたのが、福川水門。大河・利根川の右岸に合流する福川に設置された径間20メートル×3連の大型水門で、完成は1979年3月とのこと。利根川河口から157.2キロ地点にあります。広々とした田園風景の中で圧倒的な存在感があり、都会の水門とは違った味わいを感じます。

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(群馬県千代田町赤岩と埼玉県熊谷市葛和田を結ぶ赤岩渡船)

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(利根川の船上から見た福川水門)

 福川は埼玉県の岡部町に源流をもつ川で、福川水門の数百メートル下流で利根川に合流しています。ただし、昔は水門より上流側に合流点があったそうです。ちなみに水門の右岸側は行田市ですが、左岸側は熊谷市(旧妻沼町)です。

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(福川では伝統的な四つ手網漁が行われている)

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(水門と並行して橋が架かっている)

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(福川と利根川の合流点)    

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矢場川水門

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所在地:栃木県足利市野田町

 今回は東京を離れて栃木県の水門です。2010年5月に茨城県の古河市から渡良瀬遊水地、足利市などを回る自転車ツーリングに出かけた時に見つけた足利市の矢場川水門。

 矢場川は渡良瀬川の支流で、群馬県太田市に源を発し、栃木県足利市を経て、栃木・群馬県境を流れて、最後は群馬県館林市で渡良瀬川に合流する21キロほどの1級河川です。水門は合流点より少しさかのぼった地点に設置されていますが、ここから下流は渡良瀬川と並行して流れています。

 1989年7月完成のローラーゲート式水門で、幅22メートル、高さ11.38メートル。渡良瀬川の増水時に水が矢場川に逆流するのを防ぐのが役目で、国土交通省の関東地方建設局が管理しています。なお、水門名を記した銘板の文字は地元・足利市の小学6年生の女の子によるものです。

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 この時のツーリング記録はこちら。渡良瀬遊水地のほか、足利氏ゆかりの寺や森高千里の「渡良瀬橋」の歌に出てくる場所などを探訪しています。

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日比谷公園の大噴水

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所在地:千代田区日比谷公園

明治36年に開園した日本で最初の洋風庭園である日比谷公園にある大噴水です。

 直径30メートルの噴水池は3段になっていて、最高12メートルの高さまで水を噴き上げる主噴水を中心にさまざまな水景色を演出しています。月1回の清掃日を除き、朝8時~夜9時まで稼働し、28分周期で24景を作り出すということです。

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