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2010年3月

扇橋閘門

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(前扉が開き、閘室の水位は西側に合わせてある)   

所在地:江東区猿江1丁目・扇橋1丁目

 中川(今の旧中川)と隅田川を結ぶ小名木川のほぼ中間部にあるのが扇橋閘門(こうもん)です。

 隅田川と荒川、東京湾に囲まれた江東デルタ地帯は地盤沈下によって東京湾の満潮水位より地盤が低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」になっていますが、とりわけ東部地域の沈下が激しく、最大で約4.5メートルも沈んだ地点もあります。そのため、東部地域では東京湾の満潮位どころか干潮時の最低水位(A.P.±0メートル)よりさらに低い土地もあります。これらの土地は絶えず水害の危険にさらされているわけですが、江東デルタの外郭を高い堤防や防潮水門で囲むだけでなく、デルタ内の河川のうち東側を流れる部分については人工的に水位をA.P.-1メートルまで下げる措置をとっています。小名木川についても西側は隅田川を通じて潮の干満の影響を受け、水位はA.P.0メートル~A.P.+2.1メートルの間で変化しますが、東側は常にA.P.-1メートルで一定しています。東西で最大3.1メートルの水位差が生じることになり、この両区間を隔てている水門が扇橋閘門なわけですが、この水位差を維持するためには水門を開けることができなくなり、したがって船の通航も不能になってしまいます。そこで、水門を二重にして、二つの水門の間の水路(閘室)の水位を調整することで、水位の異なる両区間の間を船が往来できるようにしています。いわば船のエレベーターみたいなものですね。水位調整はバイパス管を通じて水を出し入れすることで行っています。

 扇橋閘門は長さ90メートル以下、幅員8メートル以下の船が8時45分から16時30分まで無料で通航できますが、日曜・祝日と年末年始はお休みです。

 こちらで扇橋閘門の仕組みをGIFアニメで見ることができます。

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(前扉が閉じていて、両区間の水位差がよく分かる)

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新小名木川水門

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所在地:江東区清澄2丁目・常盤1丁目

  小名木川は徳川家康が1590年に江戸に入るとすぐ小名木四郎兵衛に開削させた人工の運河で中川(今の旧中川)と隅田川を結んでいます。当初は下総の行徳で生産された塩を江戸に運ぶのが主要な目的でしたが、その後、東北方面からの物資の輸送ルートとしても重要な役割を果たしました。房総の犬吠埼沖や野島崎沖は海の難所として知られたため、北国と江戸を結ぶ水運は銚子から利根川を遡り、内陸経由で江戸湾(東京湾)に到達するのが主要ルートとなり、多くの船が小名木川を行き交うようになったわけです。そのため、当初は小名木川と隅田川の接続点に船番所が置かれましたが、のちに中川側に移されました。

 今も全区間が水路として残された小名木川と隅田川の接続点に昭和36年に設置された径間11メートル×3連の防潮水門が新小名木川水門で、流域の街を高潮や津波の被害から守るのが役目です。

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(小名木川と隅田川の合流点。向こうに見えるのは清州橋)

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(小名木川に架かる萬年橋。その向こうに水門がある)

 南米チリの大地震の影響で日本列島にも津波警報が発令された2010年2月28日、新小名木川水門もただちに閉鎖されました。

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(津波警報で閉鎖された新小名木川水門 2010.2.28)

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岩淵水門

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所在地:北区志茂4丁目

 荒川と隅田川の分流点にある水門が岩淵水門です。荒川放水路の開削にともない、大正13(1924)年に完成した旧岩淵水門が地盤沈下(両岸の不等沈下)などにより老朽化したため、約300メートル下流に2代目の水門として昭和49(1974)年から建設が始まり、昭和57(1982)年に完成して、役割を引き継ぎました。荒川増水時に洪水が隅田川に流入するのを防ぐのが役目です。

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 3連ゲートの水門で、その塗色から旧水門が「赤水門」と呼ばれるのに対して、新水門は「青水門」と呼ばれています。

 岩淵水門のすぐ下流で隅田川に新河岸川が合流しています。

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(岩淵水門下流で新河岸川が合流)

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荒川知水資料館の水生植物観察池

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所在地:北区志茂5-41-1

 荒川と隅田川の分流点にある旧岩淵水門の右岸側(新河岸川の左岸でもある)に荒川に関するさまざまな情報が得られる荒川知水資料館があり、その敷地内に水生植物観察池があります。さほど大きな池ではありませんが、クロメダカやドジョウが棲み、トンボやカエルが産卵するビオトープになっています。ここには荒川に生える、あるいは、かつて生えていた水生植物や湿性植物が数多く植えられ、貴重な植物も少なくないようです。ただ、僕が訪れたのは冬だったので、写真のような状態でした。

 荒川知水資料館は月曜休館、入場無料。

 開館時間 9:30~17:00(但し、12~2月は16:30閉館、7~9月は17:30閉館)

 また、資料館前には荒川放水路完成記念碑があるほか、かつて荒川下流の左岸にあり、新川や中川と荒川を繋いでいた船堀閘門の頭頂部が保存され、さらに荒川の河川工事に際して高さの基準となる「水準基標・岩淵基準点」(A.P.+8.259m)が設置されています。

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(船堀閘門の頭頂部)

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(岩淵基準点)

 

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旧岩淵水門

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所在地:北区志茂5丁目

 荒川と隅田川の分流点にあるのが岩淵水門です。ここから下流の現・荒川は人工的に開削された放水路で、それ以前は隅田川こそが荒川の下流部でした。蛇行を繰り返しながら東京の中心部を流れ、東京湾に注ぐ荒川(隅田川)はたびたび氾濫して、流域に洪水被害をもたらしてきました。とりわけ、明治43(1910)年8月の豪雨では荒川の堤防が決壊して東京の下町に甚大な被害を及ぼし、これが契機となって、荒川の水を都心部を通らずに海に流す放水路の計画が持ち上がったのです。こうして、現在の北区志茂付近から東京湾まで約22キロの人工放水路が開削され、大正13(1924)年に通水、昭和5(1930)年に完成し、これが現在の荒川となっているわけです。

 新しく開かれた放水路と従来の荒川(隅田川)の分岐点に設けられたのが岩淵水門で、大正13年に完成しました。9メートル幅×5連ゲートの水門で、荒川増水時に閉鎖され、荒川の氾濫水が隅田川に流入するのを防ぐのが役割です。

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 その後、周辺部の地盤沈下などの影響で老朽化が進み、300メートル下流に新しい水門(現在の岩淵水門)が昭和57年に完成して、旧岩淵水門は役割を終えましたが、今も健在です。新しい水門がブルーに塗装され「青水門」と呼ばれるのに対して、旧水門はその塗色から「赤水門」と呼ばれて、親しまれています。

 水門に併設された橋は自転車・歩行者専用で渡ることができ、島のように残された旧左岸は水門公園として開放されています。一方、右岸側には荒川知水資料館(月曜休館、入場無料)があり、荒川に関する様々な情報を得ることができます。

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 また、旧水門の上流側には岩淵水門(上)水位観測所で記録された過去の荒川増水時の歴代6位までの水位を示すポールが立っています(上写真)。その水位は以下の通り。

  第1位 A.P.+8.60メートル   昭和22年9月16日 カスリーン台風
  第2位 A.P.+8.27メートル   昭和16年7月23日 台風
  第3位 A.P.+7.48メートル   昭和38年8月29日 狩野川台風
  第4位 A.P.+7.30メートル   昭和3年8月1日   台風
  第5位 A.P.+6.48メートル   昭和13年9月21日 台風
  第6位 A.P.+6.30メートル   平成11年8月15日 熱帯低気圧豪雨

 なお、荒川は河口から約35キロ地点の秋ヶ瀬取水堰までが感潮域であり、岩淵水門付近でも潮の干満の影響を受けて水位が変化します。

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岩淵水門(上)水位観測所

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明神池跡

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(池はもうないけど・・・)

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(池跡の水路もいまは暗渠化されている)

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(昭和14年頃の明神池の様子を示す案内図)

所在地:世田谷区野毛3丁目

 今回は池ではなく池跡です。上野毛自然公園の下を流れる丸子川(旧六郷用水)に沿って下流へ向かい、上野毛から野毛に入ったあたり(第三京浜の西側)で、丸子川と多摩川との間にかつて存在したのが明神池です。

 昔、多摩川がこの付近で北に蛇行していた頃、深い淵があり、その部分だけが流路変更後も取り残された、いわゆる三日月湖(河跡湖)で、昭和初期には東西200メートル、南北80メートル、最大水深4メートルほどの池だったそうです。池のほとりに明神様が祀られていたので、明神池と呼ばれましたが、周辺の宅地化によって昭和36年頃に埋め立てられ、祠も失われました。

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(再建された龍神様)

 その後、池跡一帯で火災などの災害が相次ぎ、地元のお年寄りの夢枕に女の姿となった明神様が現われ、「小さな祠に祀ってほしい」と告げたことから、地元有志が昭和50年、野毛3-17に祠を再建し、龍神様を祀ったということです。

 池は現存しませんが、窪んだ地形がかつてそこに池があったことを物語り、多摩川沿いの多摩堤通りには「明神池前」というバス停が今もあります。

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(池の南岸跡を示す道路の段差。「タモリ倶楽部」にも登場)

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(南側から見た池跡。窪地になっているのが分かる。向こうは国分寺崖線)

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上野毛自然公園の湧水

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所在地:世田谷区上野毛2-17

 東急大井町線・上野毛駅の南西にある上野毛自然公園は国分寺崖線とその上の台地にまたがる立体的な公園です。平坦な台地上の園地には桜が植えられ、その台地の末端からストンと落ち込む崖の急斜面は鬱蒼とした樹林となっていて、湧水が見られます。湧出量はさほど多くないようですが、湿地を形成し、崖下には水生植物が植えられ、また池もあります。崖線部分は自然保護のため立ち入りはできず、階段状の遊歩道から観察するようになっています。

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(湧水による湿地)

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 公園の下を丸子川(旧六郷用水)が流れています。

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境川東水門

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所在地:千葉県浦安市堀江1丁目

 境川西水門を紹介したので、ついでに東水門も紹介します。

 浦安市を流れる江戸川(旧江戸川)の分流・境川は当初は1.7キロほどの長さでしたが、埋め立ての進展により海岸線が沖合に移動したことで、今では3倍近い4.8キロほどに延長されています。その途中に設置されているのが境川東水門で、ここがかつての河口だったのでしょう。水門のすぐ東側には市役所や文化会館などがあります。

 西水門と同様に道路をはさんで正副二つの水門が設置され、基本的に常時閉鎖されている、ということなのですが、僕が訪れた時は開放されていました。

 それでも正水門の方は下側に貝やフジツボなどがびっしりと付着しており、いつもは水中に浸かっていることを物語っていました。遠目には大空と大地の風景画みたいにも見えます。

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(水門に描かれた風景画?)

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(実は下半分に貝やフジツボがびっしり)

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池上梅園の池

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所在地:大田区池上2-2-13

 呑川の低地に面した池上本門寺のある高台の西側斜面を利用した大田区立池上梅園の土地は北半分が戦前まで日本画家・伊藤深水の自宅兼アトリエで「月白山荘」と呼ばれていました。しかし、戦災で焼失し、戦後は築地の料亭経営者・小倉氏の所有となり、南半分を拡張して別邸として使用されました。小倉氏の没後、庭園として残すことを条件に遺族から東京都に譲渡され、昭和53年に大田区に移管。紅梅を中心に植林・拡張が進められ、今では大田区の花である梅は370本(白梅150本、紅梅220本)を数えるまでになり、花の時期には多くの人で賑わいます。

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 台地の斜面下には湧水が存在し、鯉の泳ぐ池もあります。池畔に和室があるほか、茶室もあって、風情を醸し出しています。また、近年、都営地下鉄浅草線の西馬込駅付近のトンネル内の湧水を呑川の浄化用に導水すると同時に池上梅園の池にも給水しています。

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(水琴窟) 

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境川西水門と堀江水準標石

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(常時閉鎖されている水門。右後方は東西線鉄橋)

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(旧江戸川堤防をはさんで正副二つの水門がある)

所在地:千葉県浦安市堀江4丁目

 今回は東京都内から越境して旧江戸川の対岸・千葉県浦安市の水門です。

 東京メトロ東西線の旧江戸川鉄橋のすぐ南側で、旧江戸川から分かれるのが境川で、漁師町だった昔日の浦安の面影をわずかに残す水路です。かつては1.7キロほどで東京湾に注いでいましたが、昭和40年から始まった埋め立て事業により、沖合まで陸地化されるにつれて境川も延長され、現在は3倍近い4.8キロほどの長さになっています。

 その旧江戸川と境川の分流点に設けられたのが境川西水門で、現在の水門は1966年に完成しました。その後、73年に副水門も建造され、現在は二重の水門になっています。この水門は基本的には常時閉鎖されているようですが、これは地盤沈下によって境川の水位が下がり、旧江戸川との間に水位差が生じてしまったためだそうです。

 ところで、前記事(亀島川水門と霊岸島水位観測所)で日本全国の高さの基準である標高(T.P.)や荒川水系の水位の基準であるA.P.について書きましたが、江戸川や利根川にも独自の水位の基準があり、Yedogawa Peil(Y.P.)と呼ばれています。これは境川西水門の少し下流側に明治5(1872)年に設置された量水標での水位観測の結果、定められたということです。霊岸島での水位観測が始まる前年のことです。この当時の江戸川河口における水位観測に基づき、近くの清瀧神社(堀江4-1)境内に「水準標石」が置かれ、現在は土木遺産にも認定されています。

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(清瀧神社境内の水準標石)

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(リンド技師記念碑)

 この測量を行ったのがオランダ人土木技師イザーク・アンネ・リンド(Isaac Anne Lindo,1848‐1941)で、その功績を讃えるため、2009年10月に境川西水門のそばに「リンド技師記念碑」が設置されました。

 なお、リンドはまず利根川河口の銚子で調査を行った後、江戸川河口の堀江に量水標を設置して清瀧神社に水準標石を置き、ここを起点に測量を続けながら江戸川を遡り、利根川との分流点である関宿から利根川を下って銚子に達したということです。

 測量の結果、利根川河口の水位を基に銚子の飯沼観音境内に置かれた「水準原標石」は霊岸島での東京湾の水位観測結果(こちらの量水標もリンドが設置)に基づいて明治24年に当時の陸軍省の敷地(現在の国会前庭)に「日本水準原点」が置かれるまで日本の高さの基準となり、「日本水位尺」(Japan Peil=J.P.)と呼ばれました。一方、堀江での水位観測の結果が江戸川や利根川水系の河川や湖沼の水位の基準であるYedogawa Peil(Y.P.)となり、現在に至っています。当時、堀江の水準標石はJ.P.+2.6151メートルと測定されたということです。

 ちなみにY.P.±0メートル=T.P.-0.8402メートルと定められています。

 また、堀江・清瀧神社の水準標石の高さはY.P.+2.2787メートル=T.P.+1.4385メートルだそうです。

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亀島川水門と霊岸島水位観測所

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所在地:中央区新川2丁目

 亀島川水門は日本橋川の分流である亀島川が隅田川に合流する地点に設置された防潮水門です。完成は昭和44(1969)年3月。有効幅員15メートル×2連、門扉の高さ8.3メートル、開閉時間12分(自重降下4.3分)、開閉速度0.7メートル/分。

 水門の隣にはポンプによって亀島川の水を排出する排水機場も設けられています。亀島川は日本橋水門と亀島川水門が両端にあるため、両水門閉鎖時に川が増水した場合、これを排出する必要があるために設置された施設です。

 南米チリで発生した巨大地震の影響で日本列島にも津波警報が発令された2010年2月28日、亀島川水門も閉鎖されました。

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(津波警報発令で閉鎖された亀島川水門)

 亀島川と隅田川の合流点左岸側(中央区新川の南端部)には霊岸島水位観測所があります。かつて隅田川(放水路開削前の荒川)河口だったこの場所に明治6(1873)年、量水標が設けられ、6年間にわたって東京湾の潮位が観測され、その結果に基づき、東京湾の平均海面(潮位の平均値)が標高(海抜、Tokyo Peil=T.P.)0.00メートルと定められ、全国の高さの基準となっています。Peilとはオランダ語で、水準、標準といった意味です。

 また、東京湾の干潮時の最低水位を基準とするArakawa Peil(A.P.)は荒川・中川水系や東京港、多摩川などで堤防や水門、橋などの設計の際の水位の基準として利用されています。

 そして、A.P.±0メートル=T.P.-1.1344メートルと定められています。

 詳しくはこちらもご覧ください。

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(霊岸島水位観測所)

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(この時の水位はA.P.+1.8メートルほど。)

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洲崎南水門

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所在地:江東区木場6-15地先

 大横川と汐浜運河をつなぐ400メートルほどの運河が大横川南支川で、汐浜運河との接続点に設置された防潮水門が洲崎南水門です。高潮や津波の被害から江東デルタを守る水門のひとつで、江東区が管理する水門です。

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洲崎神社の弁天池

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所在地:江東区木場6-13-13

 東京メトロ東西線・木場駅の南側、大横川南支川沿いに洲崎神社があります。5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院の守り神である市杵島比売命(弁財天)を祀るために元禄13(1700)年に弁天社として創建されたのが始まりです。当時、このあたりは風景絶佳の海岸で、舟遊びや潮干狩りで賑わい、弁財天は海中の島に祀られていたということです。

 寛政3(1791)年9月4日、この地を襲った高潮により付近の家屋がことごとく流され、多数の犠牲者が出ます。事態を重視した幕府はこの一帯の土地を買い上げ、空き地として居住を禁じ、空き地の東側(洲崎神社)と西側(平久橋)に波除碑(なみよけひ)を建立しました。これらの碑は砂岩でできているため材質が脆く、震災や戦災のため損傷が激しいのですが、とりあえず今も健在です。

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 現在では都市化や埋め立ての進展により風光明媚な海岸に立地していたとは俄かには信じられないですが、境内には弁天池があり、小島に弁天様が祀られています。この池には大小さまざまな亀がやけにたくさんいます。

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炎天寺の池

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所在地:足立区六月3-13-20

 東武伊勢崎線・竹ノ塚駅の南方にある幡勝山成就院炎天寺(真言宗豊山派)は平安後期の創建と伝わる古刹です。寺伝によれば、天喜4(1056)年旧暦6月(今の8月)、「前九年の役」で奥州の豪族・安倍氏の反乱を鎮めるため、征討軍を率いて奥州へ向かう源頼義・義家父子がこのあたりで野武士の襲撃に遭い、炎天下で苦戦を強いられました。そこで京都の石清水八幡の方角に向かって戦勝を祈願し、兵士の士気を鼓舞して、ようやく敵を撃破しました。奥州の反乱も鎮圧した帰途、八幡太郎義家はこの地に応神天皇(八幡神)を祀って八幡神社を建立し、隣に別当寺として炎天寺を創建したということです。寺名は当地での戦が炎天下で行われたことにちなみ、所在地の地名・六月(旧六月村)は戦が旧暦の六月だったからといいます。

 この源氏ゆかりの寺は江戸時代の俳人・小林一茶(1763-1828)とも縁が深く、一茶は江戸滞在中、幾度もこの地を訪れ、「蝉鳴くや六月村の炎天寺」などの句を残していて、有名な「やせ蛙まけるな一茶是にあり」も炎天寺で詠まれたということです。境内の池のほとりにこれらの句碑が立っています。

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 現在、炎天寺では毎年11月23日に「一茶まつり」が開催され、当日の全国小中学生俳句大会には国内外から20万句もの俳句が寄せられるそうです。

 境内には庚申塔や馬頭観音、地蔵尊などの石仏のほか、一茶の銅像、さらにカエルの置物がたくさんあり、池の中央にも「やせ蛙~」の句にちなんだ彫刻があります。この句は当寺で一茶がいわゆる「カエル合戦」(産卵期に多くのオスのカエルによる1匹のメスの争奪戦)を目にしたことから生まれたということです。

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